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佐藤道場での稽古について》 

佐藤彦五郎新選組資料館 館長 佐藤福子

 当時の剣術についてですが、10歳になった俊宣は、父(彦五郎)から江戸土産として剣道具を買ってもらったそうで、幼いころから、剣術を身に付ける気風がありました。
 当時の道具ついて申しますと、面の両垂は肩先まであり、篭手は長くてひじに届いておりました。また胴脇の幅は一尺近くもあり、とても頑丈な作りだったようです。竹刀も丸太棒の様なので、敵を打ち倒すほど、すざましい打ち合いをしていたのです。
 佐藤道場での沖田総司の稽古のエピソードなども、大変興味深い、面白い話があります。詳しいことは、父・あきらが書いた『聞きがき新選組』に載っておりますので、是非、ご覧ください。
 書店では、手に入りにくいと思いますが、佐藤彦五郎新選組資料館に在庫があります。


『聞きがき新選組』(新人物往来社)¥2,800
(100131)


天然理心流と彦五郎について》 

佐藤彦五郎新選組資料館 館長 佐藤福子

 嘉永二年正月、火災が起き、日野宿一帯が延焼しました。その火事騒ぎに乗じて刺殺事件が起き、宿場内の治安と防衛が必要と感じた彦五郎は、天然理心流に入門することとなります。幼くして両親を亡くした彦五郎が信頼し、入門の手筈を整えてくれたのが、井上源三郎の兄で、八王子千人同心の松五郎でした。
 彦五郎は入門後わずか四年半で免許皆伝に至り、剣術の技量は卓越したものがあったと伝わっております。
 直ちに天然理心流普及のため、自宅敷地内に佐藤道場を開きますが、試衛館から近藤周助を始め、近藤勇・沖田総司・山南敬助らがしばしば出稽古に訪れました。我が家に寄宿していた土方歳三はもとより、井上源三郎らとの出会いの場となり、稽古を重ねる場所となりました。
 ここに新選組の母体が誕生したわけです。その後、ご存知のように新選組として京都で名を馳すこととなりますが、天然理心流がどれほど実践的な剣法であったかが証明されたといってもいいでしょう。
 現在も、天然理心流を継承されている荒川治氏を始めとする撥雲会の皆さまによって、目の当たりにすることができます。
 昨年、幕末当時に彦五郎が書き留めておいた『天然理心流の剣法』の古文書が発見され、近藤勇生家ご子孫・宮川清蔵氏、井上源三郎ご子孫・井上雅雄氏によって再現されたことは、子孫にとっても大変嬉しく、また名誉な出来事でした。
(090812)

土方歳三の天然理心流・中極意目録》 

土方歳三資料館 館長 土方陽子

 土方歳三生家にのこされた天然理心流・中極意目録は文久二年秋、近藤勇が宗家を襲名して後発行したものです。特徴的なのは宛名部分が改竄されている点でしょうか。通常宛名は襲名人の俗名が書かれているものですが、当家のものは「土方歳三」の末尾二文字は削り取られ、「義昌」と上書きされています。徳川幕府瓦解の後、土方家は「賊を輩出した家として、一族郎党が根絶やしにされる」とまことしやかに噂されたそうです。実際、井戸に打ち捨てた遺品、焼かれた書簡なども多かったのですが、そんな中、宛名を改竄してまでもこの中極意目録を遺そうとした遺族の思いは、やはり「土方歳三は天然理心流剣士であった」ことを誇りとし、後代に伝えたかったからに他ならないでしょう。
 そして、幕末多摩を象徴する剣術・天然理心流が、現在においても撥雲会の皆様により研鑽され、進化を遂げていることは、大変喜ばしいことと心より応援申し上げます。
 天然理心流 永遠なれ 
(090708)


井上源三郎に関する資料

   井上源三郎資料館 館長 井上雅雄

 昭和38年2月、祖母ケイは、何度も足を運び来る新選組研究家に重い口を開き、「蔵の中の唐櫃の中に何か書いたものが入っているかも知れない」と言いました。蔵の二階に入り、一番奥にあった唐櫃の中から二百数十点の史料が発見されました。史料は唐櫃の一番底にありました。史料の上には明治の教科書や習字のお手本が置かれ、隠されていたそうです。井上源三郎の書状等は、源三郎の甥泰助の妻トメさんの実家に預けておいたそうですが、昭和初期に「いい和紙がある」と、お茶を作るために使ってしまったそうです。源三郎の天然理心流の免許は、長男平助の家に預けてありました。昭和53年の引越の時に見つかり、我が家に戻って参りました。このように井上源三郎から三代目の祖母ケイまでは、新選組は賊軍だとされていたため、まるで新選組子孫であることを隠すように、決して新選組の話をしようとはしませんでした。
(090604)


《馬場兵助について》

    馬場弘融

 天保12年(1841年)生まれ、扇屋の長男です。商人の子なのに元気が良すぎたのでしょう、天然理心流を修めます。結構強かったようで浪士組に参加して京に上ります。
江戸に返されてからは庄内藩預かりとなり、「新徴組」として市中見回りから庄内戦争まで戦います。農地の開墾にも関わりました。明治6年、日野に戻ります。言い伝えでは、まるで乞食のような姿。乳飲み子を抱えた兵助たち6人は、玄関から入れてもらえず「勝手から入れ」と言われたそうです。親たちは、明治政府を恐れていたのです。
今は亡き祖母(兵助の次男勘蔵の妻)が、小学生の私に小声で話した言葉を忘れません。
「弘融!剣道だけは止めなよ」
(090604)


《新選組副長助勤六番隊長 井上源三郎》
 

井上源三郎資料館 館長 井上雅雄
   

 江戸日本橋から十里、多摩川を渡ると剣術の声が聞こえてきた。武蔵国多摩郡日野宿の井上藤左衛門の庭からだ。多摩川から精進場を通り井上家までは、欣浄寺以外家が一軒も無かった為聞こえたのではあるまいか。天正十年三月十一日武田勝頼公一族は、織田・徳川の連合軍と激戦の末武田家は歴史を閉じた。後、武田家の遺臣達の報復を恐れた徳川家は、武田家の遺臣二百四十八名を八王子千人同心(武田小人組)として甲州街道の守りに当たらせた。八王子千人同心は、身分的には武士で槍奉行に属した。
 井上家は戦国時代、武田家に仕え、井之上郷(山梨県御坂町)を領していたが、武田家が滅びた後この日野宿の地に移り住み、正徳三年以来八王子千人同心を世襲して、井上藤兵衛以来代々千人同心日野本郷の組頭を勤めていた家柄。井上家の五人兄弟が徳川恩顧の土地柄で幼い頃から剣術の修行を積むのは、ごく自然な流れで有った。多摩では天然理心流・柳剛流・甲源一刀流の多摩三大流派が有ったが、天然理心流二代目宗家(八王子戸吹の道場)の近藤三助方昌が八王子千人同心だった為、近藤周助から剣術を習っておりました。月に一・二回の出稽古は広い庭、雨の日には、土間で剣術の稽古をしたため家の柱の目の高さの位置だけ細くなっていたと、言われております。そして農家をしないで剣術ばかり習っていて農作業が遅れて困ったと言い伝えられております。
 文政十二年三月一日、井上藤左衛門の三男として生まれた源三郎は、幼い頃から剣術を習っていたため嘉永元年に天然理心流の切紙と目録を同時に受けた。四歳上の松五郎からも剣術を習い万延元年に天然理心流を受けている。次男の松五郎は同年『近世万延武術英名録』に日野宿北原天然理心流指南〔井上松五郎〕と記されている。武術に達しているばかりでなく、人格的にも温厚円満な人柄で、近所などでいさかい事などが有った場合でも、松五郎が仲介に入ると必ず丸く収まったと言われるほどの人望があった為、後新選組の相談役を勤めていた。
 文久三年二月十三日井上源三郎は、浪士組として近藤らと共に江戸を発つ、中山道と歩き京都に向かった。後兄松五郎は文久三年三月徳川十四代将軍家茂の上洛のさい八王子千人同心石坂弥次右衛門組世話役を勤めて上洛し、新選組の相談役として八木邸まで出向かい源三郎・沖田・土方・斎藤・山南などから相談を受ける。その相談が『何分近藤天狗に成り候』と有り、門人一同の相談を受けた事等が記し残されている《御上洛御供旅記録》四冊が残されている。この松五郎が京都で徳川家と新選組とのパイプラインを勤めたのは、言うまでも無いことだ。
 文久三年二月二十三日京都に入った浪士組は、京の都の美しさより多摩で育った近藤や井上や沖田や土方には、壬生村周辺に栽培される壬生菜畑や西の嵐山連山を眺め多摩の風景に似ていた為ほっとして腰を下ろさずには、いられなかったのではあるまいか。
 三月十三日清河八郎に率いられ浪士組は、江戸へ出立。残った近藤・芹沢を中心とした十数人が壬生浪士組を結成。間もなく誕生する新選組の中心人物となった。同年月に新選組の隊名を授けられたが局長は、近藤勇と芹沢鴨の二人で有った。近藤は芹沢が水戸の天狗派だった為、武士に憧れていた近藤にとっては色々学ぶ事が有った為、二人の局長になったのではあるまいか。実力的には、やはり多摩の近藤・井上・沖田・土方らこの天然理心流の仲間たちの方が芹沢同志の新見錦・平間重助・平山五郎・野口健司たちよりも、勝っていたのではないだろうか。同月十二日に芹沢の起こした大和屋の焼き打ち事件は、会津藩も激怒。芹沢一派の殺害を実行する事になる。
 多摩の古老の言い伝え聞きによると暗殺は、土方・沖田・井上・山南ら、芹沢が酒に酔って寝ているかどうかを確認する為に土方が一人見に行き確認し、最初に踏み込んだ土方・沖田が寝込んでいた芹沢を布団の上から串刺しにし、脇をすり抜けた井上が奥へ。芹沢の呻き声で気配をさして起き上がって来た平山五郎の首へ井上の剣が一撃、跳ねて飛んだ平山の首が沖田の足元に落ちた。事が終わった時井上は、『闇の剣は二度とぬかねよ』と近藤に呟いたと言う。
 元冶元年六月五日池田屋には、近藤達の予想に反して三十人余りの不逞浪士の姿があった。わずか四人で屋内へ乗り込んだ近藤達、激戦の末近藤達が危機に迫ったその時、井上チームが池田屋に到着。井上は、二階に駆け上がり一人殺しそして血を吐いて倒れている沖田に剣を振るおうとした浪士を殺し、倒れていた沖田を抱きかかえるように壬生の屯所へと引き上げた。
 総司が五才の時から源三郎は、剣術を教えたり遊んだり、自分の子供の様に育てた為、先ずは総司を探し助けたと言う。
 慶応四年一月五日鳥羽・伏見の戦いの最中、大阪へ引き上げ命令が出された。新選組も撤退を開始した。しかし戦い抜くべきだとして、頑として引かずに戦い続けたのが六番隊長の井上だった。源三郎は、兄松五郎が八王子千人同心だった為、徳川家の情報などを聞いていたので、京都を取られたら負けだよと知らされていたのでは有るまいか。銃声が−段と高まる中『六番隊突っ込め』と源三郎の声がこだまする。六番隊隊士の中に一人として逃げ隠れする隊士は、いなかった。濾三郎に全幅の信頼を寄せていた為、全員が源三郎に付き従った。隊士達が次々と倒れる中、土方もなす術が無かった。銃弾が飛び交う中、それでもなお突き進む。何人かの敵兵を切ることは出来たが、さすがの死番(六番隊)でも新型銃の前に、次々と倒れた。鳥羽伏見の戦いで新選組隊士は、二十一人戦死した。その内井上源三郎を含め六番隊全員十名が戦死した。
 最後まで源三郎を見守っていた泰助(源三郎の甥)は、「おじさん(源三郎)は、普段は無口で温和しい人だったが、一度こうと思い込んだら梃子でも動かない一徹な所の有る人だった。鳥羽伏見の戦いのおりも、味方は不利で大阪から引き上げろと言う命令が来たが、少しも引かずに戦い、ついに銃弾に倒れてしまった、弾丸を受けたおじさんは、手当ての甲斐も無く息を引き取ってしまった」と言い伝えております。
 最後まで徳川家の為に戦いぬいた井上源三郎は、甲州武田の血を受け継ぎ、武士道精神を貫いた多摩最強の剣士だったと言えよう。

 



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