<表紙へ> <稽古> <撥雲館道場> <理心流資料箱> <リンク>
<撃剣>
テレビで天然理心流の撃剣というのを見ました。
確かに加藤伊助先生も撃剣と言っていて荒っぽい稽古だったようですが、あんなに防具で固めたら鎧兜の時代に逆戻りしたように感じます。
前にも書いたように当初、加藤先生は剣道三段以上を天然理心流指導の条件としていました。相対して実際に打ち合うことにより間合いを知り、刀の動きに対する動体視力を養い、相手との駆け引きのようなのを身につけることが出来るのも事実です。ただこれは普通の剣道で十分ですし、形稽古でも工夫次第では可能です。
江戸時代後期から幕末の素肌剣術の斬り合いには実践的とは言えないように思いますが・・・
<2022/11/29>
<鍔の大きさ>
居合刀の鍔を交換しました。柄はそのままで目釘の位置が変えられないので、厚味はほぼ同じで直径が約5ミリ大きいものです。直径で5ミリということは半径では約2.5ミリですが、このわずかな違いが刀の抜き差しに影響しました。
私の身長からはやや長めの刀ですがそれまでは何気なく行っていた抜き差しで切先がわずかに鞘に触れている感じがするのです。
しばらく意識しながら使っているうちに慣れてきましたが、わずかな違いでも思いの外影響があること、長めの刀には小さめの鍔が使いやすいことを実感しました。
<2016/12/13>
<歩きスマホ>
スマートフォンを使ったゲームが話題になっています。一方で歩きスマホの危険性も指摘されています。
先日自転車に乗った学生と思しき男性が手放しでスマホを操作ししているのを見かけました。もし自動車との事故が起こり運転手の前方不注意だけが指摘されたのではたまりません。
武道・武術を習う目的として護身のためと考えている人も多いと思います。護身とは周囲に気を配ることが第一であり、少なくとも武道・武術の習得を志している者は歩きスマホ等による事故を起こすことのないよう願っています。
<2016/07/24>
<角帯の締め方>
居合の入門書を見ていたところ角帯の締め方が私の思っていたのと違っていました。
私は手先の部分を谷折りにして上から見て反時計回りに巻いていたのですが、居合の本では手先を山折りにして逆の時計回りに巻くように示されていました。
和服をよく着るという方に確かめたところ、関東と関西では巻き方が逆であるとのこと、刀を差す場合に帯の折り目が引っかからないように山折りするとのことを聞きました。又、先日読んだ時代考証の本にも江戸と上方で帯の巻き方が逆で、結び目を見れば江戸者か上方の者かがわかると書かれていました。
巻く方向がなぜ違うのか理由は判りませんが,谷折りにして時計回りに巻くと折りはじめの部分が刀を差す左腰になるので、時計回りに巻く場合は山折りにした方が無難でしょう。
何事もこれだけが正しいとの思い込みはいけないと感じました。
<2016/07/20>
<免許状>
又々理心流の会派が増えたようです。それも私どもと同じ撥雲館近藤道場伝を謳って・・・
さらに挨拶のページには平井泰輔先生から与えられたという免許状の写真まで掲載されていました。
以前にも述べたように加藤伊助先生からして目録までしかもらっていないので、撥雲館系で加藤先生以降の名前で出された免許状には何の意味もありません。
当会でもそのような免許状は全く出していませんし出すつもりもありません。仮に出すとしても級とか段とか全く違ったかたちになるでしょう。
今のご時世、言った者勝ち的な感があるので、加藤先生から直接指導を受け撥雲館道場で稽古をした最後の門人として、言うべきことは言うべきと考え書かせてもらいました。
<2016/05/25>
<久しぶりの演武>
先日剣究会として初めての演武がありました。久し振りの人前での演武であったのと見学者が中東某国の軍関係者ということで緊張の中での演武でした。
中東というと軍事的に色々と問題を抱えている地域であり、その軍関係者となればいろいろな経験をされている言わば「武」のプロ中のプロということで一層の緊張感でしたが、お会いしたその方は想像とは違い非常に穏やかで静かな表情の方でした。一方で体全体からは凜とした威厳のようなものが感じられ、「武」を志すものはこうあるべきなのかなと感じました。
今回は剣究会として初めての演武でしたが、人前で演武することにより通常の稽古では得られない経験ができることを改めて確認しました。
演武会に出ることが目的になってはおかしいと思いますが、目標の一つとすることは技術的、精神的に有効であると感じました。
<2015/08/04>
<組太刀の難しさ>
現在、古文書による古伝の形の再現を試みていますが、その中に「・・打合せ、片手にて・・・巻き落し・・・」という表現があり、最初は両腕でもった刀を片手で巻き落とすことなど無理だと思っていましたが、書かれていることをいろいろと試してみると、片手でも十分巻き落とせることが分かりました。
文書からの再現の難しさ、形の奥深さ、あるいは思い込みへの戒めなど改めて確認した出来事でした。
<2015/04/09>
<サンバイザーと自転車>
この季節になるとサンバイザーをかぶって自転車に乗っている人が増えますが、歩道などを歩いていて正面からこのような自転車が来るとちょっとした怖さを感じます。相手がこちらを認識しているのか、認識していてもどちらに避けてくれるのか分からないからです。
サングラスで歩いている人も同様ですが、こちらはまだ足の運びでどちらに避けてくれるかが大体分かるのですが、サンバイザーの自転車は苦手です。
理心流の印可に、目付に関して「業が巧みで思いが眼に表れない境地に至った人の眼を見ても無駄なので剣にのみ眼を附ける事を教える」といった意味のことが書かれています。
私はまだ相手の眼で動きを判断しているわけで、まだまだ未熟を感じる場面です。
<2014/06/02>
<最近の木刀>
理心流の太木刀を購入しようと武道具店に行って来ましたが在庫4本共重さが1.5kg程度でした。
30年程前、私が最初に入手した頃はほとんど1.8kg程で、時には2kg程のものもあり、軽いものを探すのが大変だったのですが、今では1.7kgを越えるものは入手できないようです。店の人によると材料の木材自体が軽いものしか入手できなくなっているようです。試しに今手元にある8本の木刀の柄頭の太さは17.15〜18.25cmで、ここ数年で購入したものは重さが1.5〜1.6kgとなっているので木が軽くなっているのは間違いないようです。
ちなみに別の武道具店では1.1kg程のものを見ましたがこれは柄が明らかに細く直心影流の木刀のようでした。材料費の面からもこの傾向は仕方が無いのでしょうか?
理心流の木刀形では相打ちや木刀を打ち落とす場面が多く、今年に入ってから通常の剣道形の木刀を3本折ってしまいました。これも最近の軽い木刀だったのでしょうか?そのうち太い木刀でも思い切り相打ちできなくなるのでしょうか・・・。
<2013/10/23>
<インターネット恐るべし>
天然理心流他団体の演武動画をインターネットで見ました。試し斬りをしていつところで同じ日のものが何種類か有り、中には失敗している場面もあり、その中の一つはご丁寧にスローモーションでした。
私がまだ門人会に所属していた10年以上前の演武動画や、私自身の試し斬り失敗動画などがインターネットに流れていることは承知しています。今の世の中は動画撮影もそれを公開することも容易に出来、それらがその日のうちに世界中に広まってしまうこともあるので、公の場で演武する者はそれなりの自覚と覚悟が必要だと再確認させられました。
<2012/05/18>
<平成の試衛館?>
心武館の高鳥氏が分派して「試衛館」を名乗っているようですが如何なものでしょうか?
かつて大恊謳カは心武館の天然理心流はあまり新選組とは関係なくパフォーマンス的なことは行わないと言われていたと思いますが、やはり新選組への思いの強い人が多いのでこのようなことになったのでしょうか?
我々近藤系のものとしては違和感を感じずにはいられません。私を含め平井先生、宮川先生も「試衛館」を名乗って稽古を行うことは可能だったのですが、暗黙の内にこの名前は歴史的なものなので使わないという思いがあったように思います。宮川先生がかつて大恊謳カと一緒におられた時もわざわざ「試衛の会」と言っていたと思います。
高鳥氏の試衛館のHPには新選組の解説が多く掲載されていますが、高鳥氏はこの歴史的事実をはっきりとさせるべきではないでしょうか。
<2013/01/10>
<表木刀五本の謎>
先の勇武館演武の項でも書いたように、加藤先生からの撥雲館系の形と佐藤彦五郎資料館の伝書の形では最初の構えや相打ちがないなどだいぶ違いが多く、手鏡剣と山影剣以外はほとんど違うと言っても良い程です。
さて、現代はインターネット上に様々な動画が公開され、かつて私が所属していた時の撥雲会含め、門人会や心武館の演武も見ることが出来ます。ここで疑問は、心武館系の形は佐藤彦五郎資料館の伝書とは表木刀五本を含めても全く違い、陰行(陰撓)は松崎系の伝書とも全く違うのに、何故か表木刀五本だけは加藤伊助先生から習った撥雲館系と心武館系に多くの共通点があると言うことです。
これは近藤勇五郎から加藤先生までの間に撥雲館系と心武館系の間に形の交流があったためではないでしょうか。だだそうだとすると撥雲館系には隱形(陰橈)が無く、奏者等の形が心武館系と全く違うことが疑問として残ります。
<2012/06/16>
<勇武館演武>
5月12日、ひの新選組まつりでの勇武館の天然理心流演武を見てきました。
勇武館は宮川先生の道場で、我々と同様に佐藤彦五郎資料館の伝書からの形を演武するとのことでしたが、表木刀一本目の構えから我々とは違っていました。伝書では打太刀が脇構え、仕太刀が下段で相打ちがない形となっていましたが、演武では両者脇構えで二回の相打ち後打太刀が勝つという形でした。解釈や考えはそれぞれとは思いますが、同じ加藤先生から指導を受け、同じ伝書からの復元であるはずなのに、どちらとも違うあのような形になるのは何故なのでしょう。
剣究会では加藤先生からの伝承は伝承とし残し、伝書の復元は復元としてその復元過程も記録しておくべきと考えています。撥雲館の最後の稽古を経験し、加藤伊助先生から直接指導を受け、門人会では平井先生と、私が立ち上げたかつての撥雲会では宮川先生と共に稽古をし、また宮川先生と心武館との事情もある程度は知っている私の役割は、天然理心流の形と共にこれらの事実を記録することも考えています。
<2012/05/17>
<剣術と剣道>
かつて加藤先生が天然理心流を指導されていた頃は、剣道三段以上を持った者だけに入門を許していました。現在、剣究会では武道の普及と言うことも目的としているので剣道その他の武道件を条件とはしていません。
全く初めての試し斬りを経験する時には剣道の経験が有利とは限らない場合があります。以前、剣道高段者の先生が初めて真剣を持ち試し斬りを行ったときに斬り損なうのを見たことがあります。その点、剣道経験などの全くない初心者が初めて巻藁を斬る時に以外と簡単に斬れてしまうことがあります。ところがその初心者が暫く稽古をして再び試し斬りを行うと斬れなくなってしまうことが多々あります。これはかつて私も経験しましたが、多分斬ろうという気持ちが先走ってしまうのではないかと思います。
ところで剣道高段者の先生ですが、斬り損ねたあと、ちょっとしたコツを伝えると、さすがに手の内が出来ているので次からは何の苦もなく斬られていました。
対人を対象とした武道と考えると、抜刀や居合を稽古する場合の仮想敵の置き方、対人での形稽古の場合の空間的間合いや動き出すタイミング、更には相手の剣に対する動体視力など、剣道など武道や他のスポーツの経験がないとなかなか身につかないのも事実です。試し斬りを行う場合でも、巻藁との間合いを決めて立ちその場で斬る場合はよいのですが、ある程度離れた場所から近づいて斬る場合には剣道での間合いの取り方が大変参考になります。
剣道経験のあった方が指導しやすいのは確かですし、すりあげ技や打ち落とし等、実際の件の動きに対応する動きには動体視力の重要で、これにも剣道の経験は活きます。このように剣道の経験は有った方が有利ですが、絶対条件ではありません。全く武道経験のない人に武道を知ってもらうことを目的としていますので気軽に参加してもらえればと思っています。
<2012/03/18>
<谷保天神撥雲会演武>
2月26日、谷保天神での現撥雲会演武を文字通り高見の見物をしてきました。
かつて指導したものとしては技術的にも言いたいことはありますが、ここでは運営体質について指摘します。
やはり言行不一致でした。何が言行不一致かと言えば、現撥雲会のホームページでは「
天然理心流撥雲会は近藤道場撥雲館の流れを継承しており、これは新選組として幕末に名を馳せた近藤勇や沖田総司などの試衛館の系統です。所謂、近藤系天然理心流と呼ばれるものです。江戸の太平を経て明治維新、近代戦争での人材淘汰と剣術衰退の歴史の中で天然理心流の形は数少なくなりました。歴史の流れの中で消失したものは失ったものと受け入れ、八代目加藤伊助宗家由来から伝承された僅かな形を真摯な想いで受け継いでいます。」と表明していますが、加藤先生から受け継いだ形はわずかな変形はあっても日本武道館の記録に残っているものがすべてです。陰撓の形は全く受け継いでいません。現撥雲会が演武している陰撓の形は大恷≠フ心武館に伝わる形を真似たものです。私が撥雲会にいた当時は宮川先生との間で心武館系の演武は行わないとの合意がありました。
外部に出ない場所でどのような稽古をしようがかまいませんが、撥雲館近藤道場の流れをくむと言いながら全く関係ない形を近藤系の形の様に演武するのは見学者を欺くことになります。そこを明らかにせず撥雲会の名称は使うべきではありません。どうしても演武したいのであれば大恷≠フ指導を受け、その許可を受けたうえで心武館系の形であることを明らかにするのが当然でしょう。
これは天然理心流門人会も同様です。この辺の考え方が現在私が剣究会という独自の立場で活動している理由でもあります。
<2012/02/27>
<凍結路面と足捌き>
今年は例年になく寒く雪も多いようで、東京でも日陰では所々雪が残り凍結し滑りやすい場所もありました。凍結路面を滑らないように注意しながら歩いていると、稽古で初心者に体捌き、特に最初に歩き方を指導していたときのことを思い出しました。
どのように指導しているかと言えば、簡単に言えば、膝を突っ張らずわずかに緩め、体重はあくまで両足に中間に置き、足を前に出すときは踵から踏み出すのではなく、膝から下全体で真っ直ぐ下に踏み込むようにし、後ろの足も決して蹴り出さず、あくまで体重の移動に従って次の一歩として振り出す。又ことさら大股に歩かず重心は平行移動を基本とする。
滑りにくい履き物を履くことは当然ですが、このように歩けば地面を蹴ることはないのであまり滑ることはないようです。かつての剣術道場によっては床に豆をまいて稽古をしたところもあるようですが、これなども床を蹴らないための稽古だったのではないでしょうか。これなども武道の現代生活への活用といえるでしょう。
<2012/02/19>
<加藤伊助先生以後の近藤系天然理心流について>
加藤伊助先生は昭和四十七年一月五日、撥雲館道場恒例の稽古始めの席で、当時の近藤勇史跡保存会会長加藤武雄氏の推挙により天然理心流八代目を継承されました。先生は「天然理心流八代目は暫くお預かりし、弟子の宮川清蔵氏が成長し剣道五段を取得した折には流名は宮川家にお返ししたい」と話されていました。これは加藤先生のご家族や当時の三鷹武道館の関係者も承知していたことですが、生前加藤先生がそれを明記した文書はありません。なお、このときの加藤先生の挨拶文には「宗家」と言う言葉は使われていません。
日本武道館の古武道協会での宗家継承は正式の文書がないと認めないと言うことだったので、三鷹武道館時代の天然理心流関係者の中には、加藤先生が亡くなった後は古武道協会登録の近藤系の天然理心流は加藤先生の代で途絶えたとの認識の方もいるようです。ただ現在の古武道協会の演武会パンフレット等を見ると、原則とは異なり現代表は「十代宗家 平井泰輔」となっています。
加藤先生以後の近藤系天然理心流の代表は、私の知る限りでは平成七年のNHK大阪放送局、クイズ歴史紀行に出演した際に壬生寺での撮影の折り、宮川先生が出した名刺に天然理心流九代目と書かれていたのが九代目と名乗った最初と思います。その後内部混乱があり、現在は九代目と十代目が並立している状態です。
私は昭和四十二年に三鷹警察署の防犯少年剣道に入門し、その後三鷹武道館開館と共に三鷹武道館に移籍し剣道を続けてきました。現、天然理心流門人会の平井先生兄弟は剣道時代からの先輩に当たり、宮川先生はほぼ同時期の入門になります。
この頃、柔道や剣道を題材にしたテレビドラマが流行っていたので、相前後して同学年で剣道や柔道を始める人がいましたが、ほとんどは別のスポーツの方へ移っていきました。私が剣道を続け今に至っているのは彼らのように運動神経が良くなかったからです。当然剣道でも上達は非常に遅く、特に試合はいつも「出ると負け」の状態でした。ただ不器用な人間が長く続けてきたおかげで、初心者、特に不器用な初心者が何が出来ないのか、どうして出来ないのかを理解すること、そしてそれを指導することは、運動神経抜群の人以上に出来ると思っています。
加藤先生がご存命の一時期、宮川先生が仕事の関係で北海道へ転勤となり天然理心流の稽古が出来ない期間は、加藤先生と平井先生兄弟が中心となり稽古や演武依頼をこなしていました。加藤先生の時代には剣道三段以上でないと天然理心流は教えないと言うことだったので、私は昭和五十三年に三段をとってから日本古武道協会の準会員に登録してもらい正式に天然理心流門人となりました。
当時の撥雲館系天然理心流の形は、表木刀五本、柄砕きとこじり捌きのすわり技三本と立ち技二本、それに抜刀四本のみで、これは古武道協会の記録映像に残っているものです。現在演武等で行っている型と少々異なっているものもありますが、現在の形は加藤先生ご存命中に固まったものです。現在行われているこれ以外の形は、宮川先生が心武館に所属していた当時宮川先生を通し、あるいは大塚先生が三鷹武道館へ来られ演武されたものを見て加わったもの、あるいは私たちのように古文書から復元したものです。
<2011/07/27>
<昭和四十二年 天然理心流形動画>