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<撃剣>

テレビで天然理心流の撃剣というのを見ました。

確かに加藤伊助先生も撃剣と言っていて荒っぽい稽古だったようですが、あんなに防具で固めたら鎧兜の時代に逆戻りしたように感じます。

前にも書いたように当初、加藤先生は剣道三段以上を天然理心流指導の条件としていました。相対して実際に打ち合うことにより間合いを知り、刀の動きに対する動体視力を養い、相手との駆け引きのようなのを身につけることが出来るのも事実です。ただこれは普通の剣道で十分ですし、形稽古でも工夫次第では可能です。

江戸時代後期から幕末の素肌剣術の斬り合いには実践的とは言えないように思いますが・・・

<2022/11/29>


<鍔の大きさ>


居合刀の鍔を交換しました。柄はそのままで目釘の位置が変えられないので、厚味はほぼ同じで直径が約5ミリ大きいものです。直径で5ミリということは半径では約2.5ミリですが、このわずかな違いが刀の抜き差しに影響しました。

私の身長からはやや長めの刀ですがそれまでは何気なく行っていた抜き差しで切先がわずかに鞘に触れている感じがするのです。

しばらく意識しながら使っているうちに慣れてきましたが、わずかな違いでも思いの外影響があること、長めの刀には小さめの鍔が使いやすいことを実感しました。

<2016/12/13>


<歩きスマホ>

スマートフォンを使ったゲームが話題になっています。一方で歩きスマホの危険性も指摘されています。

先日自転車に乗った学生と思しき男性が手放しでスマホを操作ししているのを見かけました。もし自動車との事故が起こり運転手の前方不注意だけが指摘されたのではたまりません。

武道・武術を習う目的として護身のためと考えている人も多いと思います。護身とは周囲に気を配ることが第一であり、少なくとも武道・武術の習得を志している者は歩きスマホ等による事故を起こすことのないよう願っています。

<2016/07/24>


<角帯の締め方>

居合の入門書を見ていたところ角帯の締め方が私の思っていたのと違っていました。

私は手先の部分を谷折りにして上から見て反時計回りに巻いていたのですが、居合の本では手先を山折りにして逆の時計回りに巻くように示されていました。

和服をよく着るという方に確かめたところ、関東と関西では巻き方が逆であるとのこと、刀を差す場合に帯の折り目が引っかからないように山折りするとのことを聞きました。又、先日読んだ時代考証の本にも江戸と上方で帯の巻き方が逆で、結び目を見れば江戸者か上方の者かがわかると書かれていました。

巻く方向がなぜ違うのか理由は判りませんが,谷折りにして時計回りに巻くと折りはじめの部分が刀を差す左腰になるので、時計回りに巻く場合は山折りにした方が無難でしょう。

何事もこれだけが正しいとの思い込みはいけないと感じました。

<2016/07/20>


<免許状>

 又々理心流の会派が増えたようです。それも私どもと同じ撥雲館近藤道場伝を謳って・・・
 さらに挨拶のページには平井泰輔先生から与えられたという免許状の写真まで掲載されていました。

 以前にも述べたように加藤伊助先生からして目録までしかもらっていないので、撥雲館系で加藤先生以降の名前で出された免許状には何の意味もありません。

 当会でもそのような免許状は全く出していませんし出すつもりもありません。仮に出すとしても級とか段とか全く違ったかたちになるでしょう。

 今のご時世、言った者勝ち的な感があるので、加藤先生から直接指導を受け撥雲館道場で稽古をした最後の門人として、言うべきことは言うべきと考え書かせてもらいました。

<2016/05/25>


<久しぶりの演武>

 先日剣究会として初めての演武がありました。久し振りの人前での演武であったのと見学者が中東某国の軍関係者ということで緊張の中での演武でした。

 中東というと軍事的に色々と問題を抱えている地域であり、その軍関係者となればいろいろな経験をされている言わば「武」のプロ中のプロということで一層の緊張感でしたが、お会いしたその方は想像とは違い非常に穏やかで静かな表情の方でした。一方で体全体からは凜とした威厳のようなものが感じられ、「武」を志すものはこうあるべきなのかなと感じました。

 今回は剣究会として初めての演武でしたが、人前で演武することにより通常の稽古では得られない経験ができることを改めて確認しました。

 演武会に出ることが目的になってはおかしいと思いますが、目標の一つとすることは技術的、精神的に有効であると感じました。

<2015/08/04>


<組太刀の難しさ>

 現在、古文書による古伝の形の再現を試みていますが、その中に「・・打合せ、片手にて・・・巻き落し・・・」という表現があり、最初は両腕でもった刀を片手で巻き落とすことなど無理だと思っていましたが、書かれていることをいろいろと試してみると、片手でも十分巻き落とせることが分かりました。

 文書からの再現の難しさ、形の奥深さ、あるいは思い込みへの戒めなど改めて確認した出来事でした。

<2015/04/09>


<サンバイザーと自転車>

 この季節になるとサンバイザーをかぶって自転車に乗っている人が増えますが、歩道などを歩いていて正面からこのような自転車が来るとちょっとした怖さを感じます。相手がこちらを認識しているのか、認識していてもどちらに避けてくれるのか分からないからです。

 サングラスで歩いている人も同様ですが、こちらはまだ足の運びでどちらに避けてくれるかが大体分かるのですが、サンバイザーの自転車は苦手です。

 理心流の印可に、目付に関して「業が巧みで思いが眼に表れない境地に至った人の眼を見ても無駄なので剣にのみ眼を附ける事を教える」といった意味のことが書かれています。

 私はまだ相手の眼で動きを判断しているわけで、まだまだ未熟を感じる場面です。

<2014/06/02>


最近の木刀

 理心流の太木刀を購入しようと武道具店に行って来ましたが在庫4本共重さが1.5kg程度でした。

 30年程前、私が最初に入手した頃はほとんど1.8kg程で、時には2kg程のものもあり、軽いものを探すのが大変だったのですが、今では1.7kgを越えるものは入手できないようです。店の人によると材料の木材自体が軽いものしか入手できなくなっているようです。試しに今手元にある8本の木刀の柄頭の太さは17.15〜18.25cmで、ここ数年で購入したものは重さが1.5〜1.6kgとなっているので木が軽くなっているのは間違いないようです。

 ちなみに別の武道具店では1.1kg程のものを見ましたがこれは柄が明らかに細く直心影流の木刀のようでした。材料費の面からもこの傾向は仕方が無いのでしょうか?

 理心流の木刀形では相打ちや木刀を打ち落とす場面が多く、今年に入ってから通常の剣道形の木刀を3本折ってしまいました。これも最近の軽い木刀だったのでしょうか?そのうち太い木刀でも思い切り相打ちできなくなるのでしょうか・・・。

<2013/10/23>


<インターネット恐るべし>

 天然理心流他団体の演武動画をインターネットで見ました。試し斬りをしていつところで同じ日のものが何種類か有り、中には失敗している場面もあり、その中の一つはご丁寧にスローモーションでした。

 私がまだ門人会に所属していた10年以上前の演武動画や、私自身の試し斬り失敗動画などがインターネットに流れていることは承知しています。今の世の中は動画撮影もそれを公開することも容易に出来、それらがその日のうちに世界中に広まってしまうこともあるので、公の場で演武する者はそれなりの自覚と覚悟が必要だと再確認させられました。

<2012/05/18>


<平成の試衛館?>

 心武館の高鳥氏が分派して「試衛館」を名乗っているようですが如何なものでしょうか?

 かつて大恊謳カは心武館の天然理心流はあまり新選組とは関係なくパフォーマンス的なことは行わないと言われていたと思いますが、やはり新選組への思いの強い人が多いのでこのようなことになったのでしょうか?

 我々近藤系のものとしては違和感を感じずにはいられません。私を含め平井先生、宮川先生も「試衛館」を名乗って稽古を行うことは可能だったのですが、暗黙の内にこの名前は歴史的なものなので使わないという思いがあったように思います。宮川先生がかつて大恊謳カと一緒におられた時もわざわざ「試衛の会」と言っていたと思います。

 高鳥氏の試衛館のHPには新選組の解説が多く掲載されていますが、高鳥氏はこの歴史的事実をはっきりとさせるべきではないでしょうか。

<2013/01/10>


<表木刀五本の謎>

 先の勇武館演武の項でも書いたように、加藤先生からの撥雲館系の形と佐藤彦五郎資料館の伝書の形では最初の構えや相打ちがないなどだいぶ違いが多く、手鏡剣と山影剣以外はほとんど違うと言っても良い程です。

 さて、現代はインターネット上に様々な動画が公開され、かつて私が所属していた時の撥雲会含め、門人会や心武館の演武も見ることが出来ます。ここで疑問は、心武館系の形は佐藤彦五郎資料館の伝書とは表木刀五本を含めても全く違い、陰行(陰撓)は松崎系の伝書とも全く違うのに、何故か表木刀五本だけは加藤伊助先生から習った撥雲館系と心武館系に多くの共通点があると言うことです。

 これは近藤勇五郎から加藤先生までの間に撥雲館系と心武館系の間に形の交流があったためではないでしょうか。だだそうだとすると撥雲館系には隱形(陰橈)が無く、奏者等の形が心武館系と全く違うことが疑問として残ります。

<2012/06/16>


<勇武館演武>

 5月12日、ひの新選組まつりでの勇武館の天然理心流演武を見てきました。

 勇武館は宮川先生の道場で、我々と同様に佐藤彦五郎資料館の伝書からの形を演武するとのことでしたが、表木刀一本目の構えから我々とは違っていました。伝書では打太刀が脇構え、仕太刀が下段で相打ちがない形となっていましたが、演武では両者脇構えで二回の相打ち後打太刀が勝つという形でした。解釈や考えはそれぞれとは思いますが、同じ加藤先生から指導を受け、同じ伝書からの復元であるはずなのに、どちらとも違うあのような形になるのは何故なのでしょう。

 剣究会では加藤先生からの伝承は伝承とし残し、伝書の復元は復元としてその復元過程も記録しておくべきと考えています。撥雲館の最後の稽古を経験し、加藤伊助先生から直接指導を受け、門人会では平井先生と、私が立ち上げたかつての撥雲会では宮川先生と共に稽古をし、また宮川先生と心武館との事情もある程度は知っている私の役割は、天然理心流の形と共にこれらの事実を記録することも考えています。

<2012/05/17>


<剣術と剣道>

 かつて加藤先生が天然理心流を指導されていた頃は、剣道三段以上を持った者だけに入門を許していました。現在、剣究会では武道の普及と言うことも目的としているので剣道その他の武道件を条件とはしていません。

 全く初めての試し斬りを経験する時には剣道の経験が有利とは限らない場合があります。以前、剣道高段者の先生が初めて真剣を持ち試し斬りを行ったときに斬り損なうのを見たことがあります。その点、剣道経験などの全くない初心者が初めて巻藁を斬る時に以外と簡単に斬れてしまうことがあります。ところがその初心者が暫く稽古をして再び試し斬りを行うと斬れなくなってしまうことが多々あります。これはかつて私も経験しましたが、多分斬ろうという気持ちが先走ってしまうのではないかと思います。
ところで剣道高段者の先生ですが、斬り損ねたあと、ちょっとしたコツを伝えると、さすがに手の内が出来ているので次からは何の苦もなく斬られていました。

 対人を対象とした武道と考えると、抜刀や居合を稽古する場合の仮想敵の置き方、対人での形稽古の場合の空間的間合いや動き出すタイミング、更には相手の剣に対する動体視力など、剣道など武道や他のスポーツの経験がないとなかなか身につかないのも事実です。試し斬りを行う場合でも、巻藁との間合いを決めて立ちその場で斬る場合はよいのですが、ある程度離れた場所から近づいて斬る場合には剣道での間合いの取り方が大変参考になります。

 剣道経験のあった方が指導しやすいのは確かですし、すりあげ技や打ち落とし等、実際の件の動きに対応する動きには動体視力の重要で、これにも剣道の経験は活きます。このように剣道の経験は有った方が有利ですが、絶対条件ではありません。全く武道経験のない人に武道を知ってもらうことを目的としていますので気軽に参加してもらえればと思っています。

<2012/03/18>


<谷保天神撥雲会演武>

 2月26日、谷保天神での現撥雲会演武を文字通り高見の見物をしてきました。

 かつて指導したものとしては技術的にも言いたいことはありますが、ここでは運営体質について指摘します。

 やはり言行不一致でした。何が言行不一致かと言えば、現撥雲会のホームページでは「天然理心流撥雲会は近藤道場撥雲館の流れを継承しており、これは新選組として幕末に名を馳せた近藤勇や沖田総司などの試衛館の系統です。所謂、近藤系天然理心流と呼ばれるものです。江戸の太平を経て明治維新、近代戦争での人材淘汰と剣術衰退の歴史の中で天然理心流の形は数少なくなりました。歴史の流れの中で消失したものは失ったものと受け入れ、八代目加藤伊助宗家由来から伝承された僅かな形を真摯な想いで受け継いでいます」と表明していますが、加藤先生から受け継いだ形はわずかな変形はあっても日本武道館の記録に残っているものがすべてです。陰撓の形は全く受け継いでいません。現撥雲会が演武している陰撓の形は大恷≠フ心武館に伝わる形を真似たものです。私が撥雲会にいた当時は宮川先生との間で心武館系の演武は行わないとの合意がありました。

 外部に出ない場所でどのような稽古をしようがかまいませんが、撥雲館近藤道場の流れをくむと言いながら全く関係ない形を近藤系の形の様に演武するのは見学者を欺くことになります。そこを明らかにせず撥雲会の名称は使うべきではありません。どうしても演武したいのであれば大恷≠フ指導を受け、その許可を受けたうえで心武館系の形であることを明らかにするのが当然でしょう。

 これは天然理心流門人会も同様です。この辺の考え方が現在私が剣究会という独自の立場で活動している理由でもあります。

<2012/02/27>


<凍結路面と足捌き>

 今年は例年になく寒く雪も多いようで、東京でも日陰では所々雪が残り凍結し滑りやすい場所もありました。凍結路面を滑らないように注意しながら歩いていると、稽古で初心者に体捌き、特に最初に歩き方を指導していたときのことを思い出しました。

 どのように指導しているかと言えば、簡単に言えば、膝を突っ張らずわずかに緩め、体重はあくまで両足に中間に置き、足を前に出すときは踵から踏み出すのではなく、膝から下全体で真っ直ぐ下に踏み込むようにし、後ろの足も決して蹴り出さず、あくまで体重の移動に従って次の一歩として振り出す。又ことさら大股に歩かず重心は平行移動を基本とする。

 滑りにくい履き物を履くことは当然ですが、このように歩けば地面を蹴ることはないのであまり滑ることはないようです。かつての剣術道場によっては床に豆をまいて稽古をしたところもあるようですが、これなども床を蹴らないための稽古だったのではないでしょうか。これなども武道の現代生活への活用といえるでしょう。

<2012/02/19>


<加藤伊助先生以後の近藤系天然理心流について>

 加藤伊助先生は昭和四十七年一月五日、撥雲館道場恒例の稽古始めの席で、当時の近藤勇史跡保存会会長加藤武雄氏の推挙により天然理心流八代目を継承されました。先生は「天然理心流八代目は暫くお預かりし、弟子の宮川清蔵氏が成長し剣道五段を取得した折には流名は宮川家にお返ししたい」と話されていました。これは加藤先生のご家族や当時の三鷹武道館の関係者も承知していたことですが、生前加藤先生がそれを明記した文書はありません。なお、このときの加藤先生の挨拶文には「宗家」と言う言葉は使われていません。

 日本武道館の古武道協会での宗家継承は正式の文書がないと認めないと言うことだったので、三鷹武道館時代の天然理心流関係者の中には、加藤先生が亡くなった後は古武道協会登録の近藤系の天然理心流は加藤先生の代で途絶えたとの認識の方もいるようです。ただ現在の古武道協会の演武会パンフレット等を見ると、原則とは異なり現代表は「十代宗家 平井泰輔」となっています。

 加藤先生以後の近藤系天然理心流の代表は、私の知る限りでは平成七年のNHK大阪放送局、クイズ歴史紀行に出演した際に壬生寺での撮影の折り、宮川先生が出した名刺に天然理心流九代目と書かれていたのが九代目と名乗った最初と思います。その後内部混乱があり、現在は九代目と十代目が並立している状態です。

 私は昭和四十二年に三鷹警察署の防犯少年剣道に入門し、その後三鷹武道館開館と共に三鷹武道館に移籍し剣道を続けてきました。現、天然理心流門人会の平井先生兄弟は剣道時代からの先輩に当たり、宮川先生はほぼ同時期の入門になります。

 この頃、柔道や剣道を題材にしたテレビドラマが流行っていたので、相前後して同学年で剣道や柔道を始める人がいましたが、ほとんどは別のスポーツの方へ移っていきました。私が剣道を続け今に至っているのは彼らのように運動神経が良くなかったからです。当然剣道でも上達は非常に遅く、特に試合はいつも「出ると負け」の状態でした。ただ不器用な人間が長く続けてきたおかげで、初心者、特に不器用な初心者が何が出来ないのか、どうして出来ないのかを理解すること、そしてそれを指導することは、運動神経抜群の人以上に出来ると思っています。

 加藤先生がご存命の一時期、宮川先生が仕事の関係で北海道へ転勤となり天然理心流の稽古が出来ない期間は、加藤先生と平井先生兄弟が中心となり稽古や演武依頼をこなしていました。加藤先生の時代には剣道三段以上でないと天然理心流は教えないと言うことだったので、私は昭和五十三年に三段をとってから日本古武道協会の準会員に登録してもらい正式に天然理心流門人となりました。

 当時の撥雲館系天然理心流の形は、表木刀五本、柄砕きとこじり捌きのすわり技三本と立ち技二本、それに抜刀四本のみで、これは古武道協会の記録映像に残っているものです。現在演武等で行っている型と少々異なっているものもありますが、現在の形は加藤先生ご存命中に固まったものです。現在行われているこれ以外の形は、宮川先生が心武館に所属していた当時宮川先生を通し、あるいは大塚先生が三鷹武道館へ来られ演武されたものを見て加わったもの、あるいは私たちのように古文書から復元したものです。

<2011/07/27>


<昭和四十二年 天然理心流形動画>

 この映像は加藤伊助先生のご家族から提供戴いたもので、当時8ミリフィルムで撮影したものをビデオテープにダビングしさらにDVD化したもので解像度は悪いのですが、天然理心流の形の動画としては最古のものと思います。三鷹市の剣道大会の際の演武を撮影したもので、加藤先生と弟弟子の藤橋先生が行っています。(因みに私はこの年に剣道を始めました)

 表木刀は既に太い木刀で行っているようで、木刀の礼式は今とほとんど変わっていないようです。編集の為か順序がだいぶ前後していますが、「序中剣」から「山陰剣」まで一応写っているようです。今の形とはだいぶ違う箇所も多いですが、「手鏡剣」と「山影剣」はほとんど変わっていないようです。

 「柄砕き」かと思われるものも今の形とはだいぶ違っていますが、やや離れた場所から小走りに近づく動きなどは、現在研究している佐藤彦五郎資料館の古文書の形に近いものがあります。

<2011/06/01>


<剣究会発足の経緯>

 元々私は加藤伊助先生の元で小学生の頃から剣道を習っており、その延長で自然に天然理心流も習うようになっていました。当初は三鷹の個人道場である「三鷹武道館」で外部からの演武依頼などがあったときに不定期に稽古していましたが、平成元年頃から平井先生兄弟と共に週一回の稽古となりました。その後、平成四年に加藤先生が亡くなってからもしばらく三鷹武道館での稽古が続きましたが、門人数が増え手狭になったことなどもあり平成九年に三鷹市井口コミュニティセンターへ稽古場を移動しました。

 この間、まだ三鷹武道館で稽古をしていた頃に、現在の心武館館長大塚氏が三鷹武道館に来られ、心武館系天然理心流の形を披露されたことがありましたが、正式な指導は受けていません。
<2011/02/24>

 井口コミュニティーセンターに移ってからは週二回の稽古となり、門人も順調に増え、ほとんど毎年のように演武依頼がありました。特に平成十六年にはNHK大河ドラマ「新撰組!」関係で多くの演武、取材依頼があり、日野市の新選組フェスタでは毎週のように演武をしていました。この時期の演武は、表木刀五本、柄砕き、抜刀、真剣による試し斬りと陰撓七本の中から適宜行っていました。しかし、この中で陰撓七本は心武館系の形であり加藤先生から習ったものではありませんでした。実際私も演武を行っていましたが、この点が、現在、剣究会を立ち上げた最初のきっかけになっています。
<2011/03/04>

 平成十七年に心武館系の形の問題など諸々有り三鷹の天然理心流門人会を離れ、その年の内に宮川先生と日野市の新町交流センターで天然理心流撥雲会を立ち上げました。立ち上げて直ぐに井上源三郎資料館館長の井上さんも入会され、その他、佐藤彦五郎新選組資料館や土方歳三資料館の協力なども得ることが出来ました。その中で、佐藤彦五郎新選組資料館から近藤勇らの時代の天然理心流の形を解説した古文書を提供して頂き、当時の天然理心流の形を研究することが出来るようになりました。これを見ると表木刀五本は半分以上加藤先生の形と似ているのですが、陰撓(陰形・いんぎょう?)は心武館系の形と全く違うことが分かりました。
<2011/03/20>

 そこで撥雲会は加藤伊助先生からの形と、新選組の中心であった局長の近藤勇以下、土方歳三、沖田総司、井上源三郎ら多摩の剣士が使った剣法としての近藤系天然理心流の形を追究して行こうと考え、心武館系天然理心流の形は演武しないこととしました。

 その後、内部問題により平成二十二年に撥雲会を退会しましたが、この時点では宮川先生と井上さんが会に残るということだったので私がつけた撥雲会という名を残しました。しかし、撥雲会の命名者で稽古を指導してきた私が退会し、さらには新選組血縁者のお二人が退会された現状では、撥雲会という名は返上してもらうのが当然と思っています。現在の撥雲会内には撥雲館での稽古経験者も加藤先生から直接指導された人もいないのですから。
<2011/03/27>

 さて剣究会ですが、二代目三助以後天然理心流が何系統化に別れ、それぞれが色々な形で稽古されていることは承知しています。その中で「新選組の剣」といえるのは試衛館、近藤系の天然理心流であると考え、近藤直系の勇五郎、新吉、加藤伊助と受け継がれた形は継承しつつ、幕末の佐藤彦五郎等が稽古したものと思われる当時の天然理心流の形を研究し復元していきたいと考えています。佐藤彦五郎新選組資料館から提供頂いた資料は現在入手できる最も参考になる資料と思われるので、剣究会の中で侃々諤々話し合い、実際に身体を動かし、我々の知識、技量の中での復元していきたいと考えています。他の解釈や異論もあって当然と思いますので、あくまでも「剣究会」としての解釈であることをお断りしておきます。 
 なお、この作業に興味のある方の入会も歓迎します。
<2011/04/03>



<撥雲館道場>

 約20坪の狭い道場で、入り口のところに一段高い部分がありほぼ剣道の試合場一面で、稽古場としては非常に狭い感じがしました。昔は道場に入りきらないので外でも稽古をしたとのことです。

 昭和54年正月を最後に閉鎖される直前、その正月5日の稽古始め(年にこの日だけの稽古ですが)兼、新年会、顔合わせ会に参加したことがあります。防具を付けての稽古の後、理心流の演武披露があり、その後、宴会が始まりました。お年の方々はこちらがお目当てのようでした。私はまだ高校生位だったのでそちらの方には参加しなかったのでどのような状況だったのかは承知しておりません。

撥雲館道場での最後の稽古撥雲館道場での最後の稽古
   閉鎖前の撥雲館道場(丸印が加藤先生。向かい合っている右側が私。)


<加藤伊助先生>

 加藤先生のイメージとしては、上背はあまり大きくありませんでしたがドッシリとした馬力のある先生という感じでした。剣道では片手で胴の下を持ち、もう一方の手一本で竹刀を持つ片手上段をよくとられていました。稽古で体当たりをして何度も弾き飛ばされたことをたことを覚えています。頭から落ちて脳震盪を起こしたこともありました。

 さて、天然理心流八代目としての加藤先生ですが、これは昭和48年に出された「天然理心流八代目継承挨拶」という冊子によると、撥雲館道場門人で結成された「近藤勇史跡保存会」に推挙され、林栄太郎氏が会長を務められている新選組研究の「三十一人会」の協力を得て多くの資料を参考にしたとと記されています。


 
<天然理心流の木刀>

天然理心流木刀と一般の木刀 現在使用している天然理心流の太木刀は、昭和40年前後に加藤伊助先生、平井先生、さらに当時三鷹警察の剣道助教だった佐藤先生が、元々近藤家にあり近藤勇らが使用したといわれ、当時龍源寺に移され保管されていたものの姿を紙に写し取り、武道具屋に復元・作成してもらったものです。この形の木刀は当時、小金井の郷土館にももう一本展示されていました。作成を依頼したときには、この木刀は天然理心流が依頼して作ってもらうもので、市販するものではなく、作成する場合は天然理心流の許可を取るようにということだったようですが、いつの間にか市場に出回り現在のようになってしまいました。

 赤樫で復元されたその木刀は一本で1.8kg程ありました。この最初に作成した木刀は度々の演武における相打ちでヒビが入ってしまいました。その後当会でもだいぶ入手しましたが、最近では材料となる素性のよい樹がなくなってきたようで、重さも1,6kg前後、色もやや白く、所々にやや気になる斑が入ったようなものが多くなってきました。また、十分乾燥されていないと時間がたつと捻れてくるようなものもありました。

 この太木刀については、加藤伊助先生が亡くなった後、撥雲館での加藤先生の先輩に当たる方に録音取材にいった折、「ああ懐かしいなあ。この木刀で稽古したんだよ。普通の木刀の記憶はないなあ。」との話を聞きました。少なくとも昭和初期から第二次大戦中までの撥雲館ではこの太木刀を使っていたようです。このときの取材の様子はまた別の機会に述べたいと思います。



<日本武道館のビデオ>

 昭和58年に撮影がありました。私もチラッと写っていますが今となってはもう一度撮り直してもらいたと思います。このビデオ用の撮影を行った当時はまだ今ほどプロ用のビデオが普及していなかったのか、原版はフィルムでの撮影で、大型発電機を積んだクルマと、大型ライト3〜4台を点けての撮影でした。この撮影のために平井泰輔、正人両先生他、数名の門人に加藤先生が指導しているところを撮ったビデオが今でもあります。試合口3本、表木刀5本、坐り技の柄砕3本、それに居合(抜刀術)4本の撮影が行われました。

 現在居合の型4本については、先に述べた加藤先生八代目襲名挨拶の冊子に書かれた説明と全く異なったため、現在は加藤先生指導の撥雲館基本の型として入門者に最初に指導しています。

 これ以外に稽古中気絶した者に対する活法を3種類指導された記憶がありますが詳細は忘れてしまいました。私が加藤先生から指導を受けたものは以上です。


<刃筋、太刀筋>日本武道館での試し斬り動画

 日本刀は切れます。しかしどんなに切れる刀でも、刃筋、太刀筋が合っていなければ物を切ることは出来ません。

 太刀筋とは刀の進行方向で、刃筋とはその進行方向に対する刀の刃の向きのことです。これが一致していれば巻藁など何の抵抗もなく切ることが出来ます。実は右の試し斬りの時も、この場面の直前に一太刀目でこの巻藁を切れずに倒しているのです。

 稽古には木刀を使用することがほとんどだと思いますが、この刃筋、太刀筋をしっかりと意識して素振りや形の稽古をすることが必要です。


<表木刀五本の形>天然理心流太木刀

 理心流は木刀五本に始まり、木刀五本に終わると言われてきました。単純な形の中に、腹からの気合い、打ち込みの間合い、足捌き、受けではない相打ち、相打ちの後の互いの先の意識、また、当然あの太い木刀を振るのですからシッカリとした手の内が出来ていなければなりません。ちょっと見ただけでは分からないこれらのことがこの形から学ぶことが出来るのです。

 特に相打ちは、なるべく相手の頭上を意識し、鎬同士で行うようにしています。従ってこの写真のように木刀の片面の鎬ばかりに傷が付くようになります。

 ただ初心者の人にはこの木刀を振るのはちょっと危険と思われるので、先ずは普通の木刀で十分素振りを行ってもらい手の内が出来、しっかり木刀が止められるようになってからこの木刀を使うようにしてもらいます。この太い木刀は1.5〜1.8kg程ありますので、これがしっかり振れれば刀は十分に振れるようになります。



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